原民喜論 ―変化し続ける対話の対象・鳴り止まぬ異界からのメッセージ―

☆2023年12月20日に提出した、卒論です。

☆2024年3月17日、大学より 優秀卒業論文・研究賞を頂きました(!)。

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【はじめに】

○『夏の花』を読み、「書きのこさねばならない」 というフレーズに出会ったとき、 私は作者の民喜のことを何も知らなかったが、ちょうど私自身が、〈遺す〉という行為についてよく考えていた時期だった。 いずれ死ぬからには私も何かを遺したいが、 その死がいつ来るともわからない。 焦燥感に駆られていたのである。自分は何を遺せるだろう、 突き詰めていくと、 やはり自分の人生に起きた事件を作品に昇華するのが得策だろう、 という結論に至る。ただ、私の人生に起きた事件は、 極めて狭小な、世間からすればまるで取るに足りないものである。 それでも、自分が死んだらエピソードも丸ごと死ぬのだと思うと、 〈書きのこしたい〉という気持ちが、 沸々と湧き上がってくるのだ。しかしそれは私のエゴである。

○一方で民喜の「書きのこさねばならない」には、 エゴを通り越した、まるで天から授かったような、 強い使命感が滲んでいるのである。なにしろ、 民喜が遭遇した事件は、「取るに足りない」 などと口が裂けても言えない、人類史上初の大事件〈原爆投下〉 なのである。

○同じ頃に、水木しげるの著書と出会った。タイトルは『( 娘に語る)お父さんの戦記』(※註1)、

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○その本の裏表紙にはこう書いてあった。

「諸君! またつぎの戦争の「前」に、いま、いるかもしれない。 くりかえしてはいけない。ぼくたちの体験を直球で投げる。 受けてほしい。」

私はここで、ある推測をした。 一部の戦争体験者は、〈 二度とこんな歴史を繰り返してほしくない〉という思いから、 進んで自身の体験を語ろうとするのではないかと。そして特に、 詩人や漫画家などの表現者であればなおさら、 責任感を持って語ろうとするのではないかと。

○私は以上のことから、民喜と水木に〈語り手〉 として共通する意識を感じ、ふたりを比較してみることにした。 幼年期から少年期にかけての民喜は、内向的で、 脆弱で繊細な性格だった。それに対して水木は、 かなり外交的で仲間内のムードメーカー。 そしてケンカに明け暮れたガキ大将だった。一見、 正反対のようなふたりだが、意外にも多くの共通点が見つかった。 たとえば〈幻想〉に取り憑かれた時期があること。そして天性の神秘家であることだ。

○例えば、幼少期の水木が、のんのんばあ(景山ふさ) という女性に不思議な話(妖怪伝説や死後の世界) を学んでいるのは、民喜が姉に、 聖書や何やらを教えられる構図とリンクする。しかも、 水木はのんのんばあに、民喜は女中に連れられて、〈地獄〉 を見せられるという体験もしている。 太宰治にも似たような話があるが、 ここではふたりのエピソードを並べてみたい。

水木しげる 不思議世界の案内人といえばのんのんばあをおいて他にない のんのんばあは近所の拝み屋のばあさんだがぼくの家にはしょっち ゅう来ていた ぼくはのんのんばあに現実とは別の世界があることを教わった (正福寺の絵) 「しげーさんこれが地獄絵だ」 「ジゴク……」 「ああ悪いことして死んだら次に行く世界だけんな」(中略) 死んだらどうなるのか…… それはその頃の僕にとって大きな関心事だった(『私はゲゲゲ』)  (※註2)

原民喜 私は女中に負はれて、地獄極楽を見に行った。(中略) 大きな青鬼がゐた。 暫く私の眼は不思議な鬼の顔に吸込まれてゐたが、 そのうちにもう足がガタガタ慄へ出した。 私は女中の耳に口を寄せて「帰らう」と、小声で囁いた。しかし、 女中の手は私の躯をしっかり締めつけてゐて、「まだ、 これからですよ」と、冷淡に云った。(中略)「見ておきなさい、 見ておくものですよ」と、 どうしても女中は私に地獄を見せようとするのだった。(『 小地獄』)

○水木の言葉を借りれば、ふたりとも〈不思議世界の案内人〉 が身近にいたことになる。地獄や極楽は、 あるともないとも言い切れない、空想上の世界である。 しかしふたりとも、その〈異界は存在する〉と教えられたのだ。

○まだまだ共通点はある。民喜は、 広島高等師範学校の入試に失敗して一年遅れで入学したのだが、 水木も、 尋常小学校に両親の意向によって一年遅れで入学している。( そのため水木は周りの子供より身体が大きく、 このことがガキ大将になるのに役立った。) やがて水木は精華美術学院に入学するが、授業を退屈に感じ、 近所の森や山で時間を潰す日々を送る。これは、 民喜が暗黒の中学時代、 運動場の喧噪を避けて植物園を歩きまわった様子(『雲の裂け目』 )とオーバーラップしているように感じるのである。

○ただ、ここまでは、こじつけと言われても仕方のない部分だ。 しかし重大な共通点が残っている。それはふたりが、【あの世】 に親しみを持っているという点である。 父や姉弟を亡くしている民喜と同じように、水木も、 親しかった友達や、 妖怪の英才教育を施してくれたのんのんばあという恩人を亡くして いる。異界の存在を幼い頃から知り、地獄に恐怖しつつ、 実際に死が身近だったふたりはだんだんと、 あの世に思いを馳せて空想する機会が人一倍多くなる。こうして、 ふたりは神秘家の道を突き進むこととなった。

○二〇二二年八月二七日、NHK・Eテレで『100分de名著』 の水木しげる特集回が放送された。 宗教学者の釈撤宗氏が水木の著作、『のんのんばあとオレ』 について語っていたが、以下の発言が特に印象的だった。

水木さんは、 境界に関心をもつと同時にその境界の近くにこそ弱者はいるという 、独自の感覚をもっていたように思います。強者という存在は、 堂々と王道を歩いているから境界には鈍感になりがちです。 一方で、たとえば困窮者や病を抱えている方、 マイノリティの方など、弱者とされるひとたちは、 境界に繊細に接することができる。 彼らは境界の危うさを知っているし、 境界のクリエイティビティにも敏感に反応できるのでしょう。 (※ 註3) 

○この感覚は、民喜にもあったはずである。なぜなら民喜は、 精神的にも肉体的にも〈弱者〉であり、あらゆる局面で〈少数派〉 だったからだ。民喜と水木は、持ち前の性格こそ対照的だが、 似たような体験を通して異界に触れ、〈あの世〉と〈この世〉、 その境界に敏感な、〈境界人〉 としての境地にたどり着いたのである。

○ここまでは共通点を挙げてきたが、 水木と民喜には決定的な違いがある。それは出征体験の有無、 そして被爆体験の有無である。 水木は派遣されたニューブリテンラバウルで右腕を失った。 民喜は広島で原爆投下後の地獄絵図を目の当たりにした。 それぞれに起きた事件はまったく別のものだった。しかし戦争を憎んだのは同じである。ふたりは、それぞれの体験を、 自らの作品に細かく記録した。水木は『ラバウル戦記』や『 総員玉砕せよ!』を描いた。

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○民喜は『壊滅の序曲』や『夏の花』、 『廃墟から』などを書きのこした。 ふたりとも戦争の被害者として、 自分の得意とする表現方法を用いて、証言したのである。
○ところで、原民喜という人物を論じる上で、 切っても切り離せないキーワードがある。私はそれが全部で〈 六つ〉あると考えているのだが、そのうち最初の三つは〈死と愛と孤独〉であり、それについては「 私の文学が今後どのやうに変貌してゆくにしろ、 私の自我像に題する言葉は、死と愛と孤独、 恐らくこの三つの言葉になるだらう。」(※註4)と、 民喜自身が小文の中ではっきりとさせている。 私が追加したい三つのキーワードというのは、〈使命と追憶と鎮魂 〉である。これらは民喜の作品や、 民喜について論じた先行研究に於ける頻出単語なのである。

○主な原民喜の先行研究として、川西政明『一つの運命。原民喜論』 がある。その章立ては、「運命、資質、夢、人間、鎮魂、心願」 と、キーワードごとに作品やエピソードを分類した形式である。 私は川西政明氏に倣った形式で、 主に六つのキーワードから民喜の姿を浮かび上がらせて論じること にする。

Ⅰ 孤独 ―原ためいき―

(画像参照元トップページ | 原民喜の世界−夏の花、そして死と愛と孤独−

○民喜は、一九〇五年、広島県広島市幟町一六二番地に、 原家の五男として生まれた。民喜という名前は、 戦争に勝って民が喜んでいる様子が由来である。原家(原商店) は、軍御用達の縫製業を営み、かなり裕福な家庭環境であった。 彼の人格形成に、まず大きな影響を与えたのが〈父親の死〉 だった。民喜は後年、胃がんで亡くなった父の葬儀以後の、 自らの変化を回想した『雲の裂け目』という小文に、 次のように綴っている。

それから一年位すると、僕はいつの間にか、 あの飛んだり跳ねたりしたがる子供の衝動をすっかり喪つてゐた。 (中略)僕はもう同じ齢頃の喧騒好きの少年たちとは、 どうしても一緒になれなかつたし、 学校の課業にはまるで張合を失つてゐた。 僕は子供のとき考へてゐた僕とはすつかり変つてゐる自分に面喰ら ひだした。僕は何になりたいのか、わからなかつたし、 大人たちが作つてゐる実際の世界は僕にはやりきれないもののやう に思へだした。

○父の死を経て、自分が子供らしい子供ではないこと、 同級生に馴染めないことに気が付いた民喜。 さらに人生に目的を見出すことも難しく、虚無感に苛まれていた。 ただ彼には、のちに、ひとつの〈延命措置〉 が施されることになるし、さらに〈使命・天命〉 をも享受することになるのだが、 それは後になってからの話である。

梯久美子氏によると、入学してからの四年間、学校で民喜が「 声を発するのを聞いたものはひとりもいなかった」(※註5) そうだ。まるで不可侵の存在かのような扱いだ。 民喜は通俗的なものを嫌う性格だったそうだが、 それが度を超して、彼は〈超俗的〉 な雰囲気を纏い始めていたのだろう。〈神格化一歩手前〉 のようなエピソードが残るほどの寡黙を貫いていた民喜に、 熊平武二という生徒が声をかけた。以下に引用するのは、 長光太が記録した、当時の熊平の様子である。

下校の道すがらたまたま原民喜を見つけたとたん、 思い切ってはじめて声をかけてみたんよ、 あんなは慌ててこそこそ小走りになって、前かがみに逃げる( 中略)「少年詩人」のことを話してから、 しつこく作品をくれとたのんだら、原民喜がうなづいたんよ。 念をおしたら低い声で、うんと返事をしやがった、 あんなの声を聞いたのは学校中であしがはじめてじゃ。(長光太『 三十年・折り折りのこと』)

○民喜の声を聞けたことを自慢する、熊平の無邪気さがまぶしい。 熊平は、民喜の暗黒の中学時代に於ける、 たったひとりの友人となった。 小海永二氏が紹介する以下のエピソードには、熊平の他に、 岡田二郎という人物も登場するが、そこでは熊平が、 民喜にとって重要な役割を担っていることがわかる。

中学に入ってからの民喜は確かに風変わりな少年だった。 というより、 彼はもうすでに周囲の同世代の少年たちとあまりにも異なった世界 に居たのである。(中略)彼はよく学校に遅刻し、 学校に居る間も、"運動場の喧騒を避けて、 いつも一人で植物園のなかを歩き“(「雲の裂け目」)まわった。 (中略)のちに熊平氏を通して民喜と親しくなった岡田二郎( ヴァイオリニストとして優れていたが、広島に居て原爆死) との会話にも、 いちいち熊平氏が側に居て通訳のように話したという。 (※註6)

○常軌を逸するほどの寡黙さで、 周囲から明らかに浮いた存在であった民喜。熊平の役割とは、 民喜と世間を繋ぐ〈通訳〉だった。その〈通訳〉 さえ必要とする寡黙さには驚かされるが、 これこそが大人になってからも変わらない民喜の特質なのである。たとえば長光太は、民喜の妻・貞恵のことも、民喜にとっての「 通訳」、また外界への「回廊」と呼んだ。通訳の役割は、 熊平から貞恵へと継承されていった、とも言えるのだ。

○またそのことを裏付けるように、詩人であり小説家の佐藤春夫も『 原民喜詩集叙文』の中で、「 彼のお礼の言葉や今後の努力の方針などの質問は細君によつて取次 がれ通弁された。」と綴っている。

 ○そんな民喜には、〈原ためいき〉というあだ名がつけられた。

 "原ためいき"と呼ばれた切ない感傷には、 すでに彼を脅かすものとしての外的現実から、 眼をはるかな遠いものへとそむけずには居られない痛々しい心が息 づいていた。(中略)彼自身、自ら分裂症だと云い、 友人たちからは"被害妄想狂とか、恐迫神経症非力錯綜だとか"( 長光太「鬼籍」、『近代文学』昭和二十六年八月号) とからかわれていた。 (※註6)  

○友人たちにとっては嘲笑すべき対象であったとしても、 本人にとっては深刻な問題であった。何より、 幼い頃から異界の存在を信じ、死を目の当たりにし、 人生の虚無を早くから悟っていた少年である。 いつ自分もあの世に行くか分からない、そんな不安と、〈ここでは ないどこか〉への微かな憧れに挟まれ、揺らいでいたのであろう。 ただ川西政明氏は、民喜をはっきり〈分裂病質者〉 だと断言している。    

自己と世界の両方から引き裂かれた人間を分裂病質者と言う。存在 論的な不安定さを幼児期から自分の内部に感じてしまう人間がいる のである。普通、 人間は子供の時からすでに自分自身を実在的な存在として経験する 。 しかしながら幼少期からこのようにアイデンティティが危険にさら されてしまっている人間は、 自分を実在的な存在として経験することができず、 非現実的と感じてしまうのである。 (※註7)

川西政明氏の指摘の通り、『死と夢』の中の『行列』 という作品には、「存在論的な不安定さ」が見受けられる。『 行列』の主人公・文彦が、葬儀を見る、というものである。 ゆっくりと家族の様子を窺っていると、 棺の中の遺体が文彦自身であることがわかる。 そして参列者の顔ぶれを見て意外に思ったりするうちに、 自分が無視されていることに気がつく。自分はここにいるのに、 いないかのように扱われる。 それに対して文彦は猛抗議を始めるが、 参列者の悪童にからかわれる。

やめてくれ、やめてくれ、僕は死んぢゃゐないじゃないか。ほら、 ここにゐるのがわからないのか。馬鹿、みんな馬鹿、 みんなとぼ けて僕を葬らうとするのか(中略)「やあ、やあ、やあ、 北村の幽霊か」(中略)嬉しさうに囃し出した。「 生きてた時から、まるで幽霊のやうな野郎だったもの。ハハハ、 こいつは面白い」

○作品自体は民喜が三十代の頃に書いたものだが、作中にも、 こういった自分の葬式を夢で見ることが何度もあったと綴られてい る。『行列』からは、からかわれることへの怒りもそうだが、 普段から感じている孤立と、その疎外感、 あまりにも民喜にとっては現実的すぎる痛みがひしひしと伝わって くる。清水節治氏は、民喜の内面を「 常に何ものかにおびえ続けるたくましからざる精神、 ほとんど過度なまでの被害者の意識」と形容し(※註8)、 さらに〈被害妄想的〉とまで言っている。 私はその意見に概ね賛成である。

○付け加えるならば、「民喜は、 優秀なやられ役だ」というのが、私の意見である。 何かと対峙したとき、絶対に負けはするけれども、 投げられ方は綺麗で、 受け身も上手くとるのでダメージは緩和されている。つまり、 民喜は被害を余すところなく味わい尽くし、やがて作品に昇華、 もしくは作品内で〈証言〉する、被害者のプロなのである。

○そんな民喜だが、果たして自ら外界へ、 何かしらの働きかけをしたことがあっただろうか。 渡辺ふさ枝氏は、『透明への飛翔 : 原民喜論』の中で、被爆以前の民喜を「 非現実の中に独自の詩的世界を想像していた作家」とした上で、 次のように述べている。

特徴的なのは、この憎悪に満ちた屈辱感であり、 この屈辱を拳固を握りしめながらも、「ぶっ放」 せない弱さである。 原は人知れずポケットの中で拳を握りしめながら、一人耐え、 自閉していくことしかできなかった。(中略)原がとった方法は、 外にむかって働きかけるのではなく、 貝のように口を閉すことであった。自身の裡につぶれ込むように、 内へ内へと降下することだったのである (※註9)

思ったことや感じたことを、 屁と同様にぶっ放せてしまう水木しげるとは違って、 周囲に対して壁をつくり、なおかつ殻に篭ってしまうために、 世間とのつながりをうまく持てなかった民喜。 しかし言い換えるなら、そのぶん彼は普通の人に比べて、かなり〈内省的〉な人物であったとも言えるだろう。私は、 この幼年期から青年期の初め頃までを、民喜による、〈自己との対話〉の期間だった、と定義したい。だからといって、 幼年期から青年期にかけてのところまでで、 彼の自己との対話が終わりを迎えるわけではない。 彼は生涯無口で、生涯内省的であったから、 自己との対話は死ぬまで続くことになる。

Ⅱ 愛 ―裏切りと運命―

○民喜の愛の形は、時期によって変化している。 先立って論じてしまえば、自己愛と、他者への愛、 これらを行き来しながら、最終的に〈死者への愛〉 へ辿り着くのである。とにかく孤独を拗らせた民喜が、 愛に飢えていた人間だったことは間違いない。しかし、 母性愛に関しては、 かなり早い段階で諦観を抱いていたようである。

兄弟姉妹の多いなかで育った私は、 母親の愛を独占することはできなかった。 まだ小学校に上る前のこと、ある日、母は私を背に負ってくれて、 「あなたがひとりっ子だったら、 こうして毎日可愛がってあげるのに・・・・・・」といった。 その言葉で、私は何か非常に気持がすっきりした。 これは私の生涯において母が私にくれた唯一のラブレターだった。 私は幼にして母の愛の独占といふことは諦めた。(『 母親について』)

○そんな母の代わりに、民喜に常に寄り添って愛を注いだのが、 姉の鶴であった。鶴は民喜に、『聖書』や『クオ・ヴァディス』 を読むことを勧めたり、 アダムとイブの創世記の話を聞かせたりした。民喜自身も『 魔のひととき』に、「幼い時から僕はこの姉が一番好きだったし、 僕はこの姉から限りない夢を育てられたな気がする。」 と綴っている。しかしその姉は、 二十二歳の若さでこの世を去ってしまう。

これは私が少年の日に死んで行った姉からきかされた話であった。 何気なく語る姉の言葉がふしぎな感動となって少年の胸にのこった のは、死んで行く人の言葉であったためであらうか。(中略) あの話を聞いた時の病室の姉の姿がすっきりと見えて来る。 美しい姉は私に泣けと云ってゐるのではない。 いつもその顔は私を泣くところから起ちあがらせるしなやかな力な のである。(『母親について』)

○若くしてこの世を去った母親代わりの姉。父の死とも併せて、 民喜は幼年期に〈離別〉を否応もなく経験させられたのである。 特に、面倒見の良い美しい姉との離別は、民喜にとって〈あの世〉 に対する憧れを抱く、きっかけともなった。これ以降、 家族からの愛を一切享受できなかったとまでは言わないが、 この離別は間違いなく民喜の心に暗い影を落としたであろう。 渡辺ふさ枝氏は、そんな民喜を〈自己愛の強い人間〉 だったのではないかと指摘する。

他者に求めてもなお得られない愛の落差が大きければ大きいほど、 傷ついた心は自身を愛する方向にむけられていく。 大きな挫折と愛の渇望、そして外界への不安、これら外的、 内的な負の条件を全て背負ったとき、 少年原民喜は自己愛の強い人間の資質を形成していったのではない だろうか。 (※註9)

○ところで民喜の女性関係であるが、 主にふたりの女性との関係だけに絞って紹介したい。 実は民喜には、意外にも左翼運動に参加したり、 ダンスに凝った時期があった(慶應義塾大学在学時)。 こうした行動は、民喜が自分の殻を打ち破ろうとする挑戦、 涙ぐましい努力であった。事実、どれも長続きはしなかった。 その時期は髪を伸ばし、外国煙草を吸っていた。 そして慶應を卒業すると、一旦、ダンスの会の受付として働く。 そのときに出会ったのが本牧という遊廓地で働く女性だった。 民喜は、この女性の借金を肩代わり(身請け)してまで、 ふたりで暮らそうとした。しかしすぐに裏切られ、民喜は憔悴し、 カルチモンを服用し自殺を図ったが未遂に終わった。 悲惨な出来事である。
○二人目が、原民喜の最愛の妻・永井貞恵である。

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(画像参照元死と愛と孤独の詩人 「原民喜」 - ブログ 「ごまめの歯軋り」

○彼女とは、 実家から持ち込まれた縁談で知り合った。長光太にその役割を「 通訳」、外界との「回廊」と形容された広島出身の貞恵だが、 民喜にとっては本当に、運命の出会いであった。 貞恵の弟である佐々木基一によれば、 民喜が貞恵と一緒に居るときの様子は「 ちょうど魚が水を得たようにいかにも心楽しげ」だったという。

○結婚初夜の様子は『華燭』のとおりである。「 はじめて主人からきかされる言葉は生涯、身に沁みるものだから、 お前も今夜は何か云ふことがあったら、 云ひきかせておやりなさい」と母に言われた主人公は、 焦ってしまう。そして結局、 口下手なので気の利いたことも言えず、「オイ!」「何とか云へ! 」と怒鳴る始末。すると花嫁は「なんですか!おたんちん!」 と怒鳴り返したのだ。貞恵は生涯、民喜に献身的に寄り添ったが、 思ったことは素直に口に出す女性だった。だからこそ、 貞恵にまっすぐ愛され、励まされることが、 民喜は何より嬉しかった。

ちなみに民喜の全集には幾つか童話も収められているが、 ある作品に登場する〈人形〉と〈少女〉が、 民喜と貞恵の関係性をそのまま描いているように感じるのである。

一生けんめい、我まんしました。そのお人形は、 あんまりいろんなものが見えてくるので、 疲れるのかもしれません。生れつき、 ほかの人形たちよりも弱いのかもしれません。 でもじっと我まんしている姿は、とても美しく立派に見えました。 今にもパタンと前に倒れさうなのに、 眼は不思議にかがやいてゐました。ショーウィンドの前に立って、 熱心に人形をながめてゐた、一人の少女は、 人形屋の主人をよんでその人形をゆびさしました。それから、 そのお人形は少女の手にわたされました。 その温かい手のなかににぎられると、 急にその人形のほおの色はいきいきとしてきました。もう、 これからは気絶したりすることはないでせう。(『気絶人形』)

○繊細で傷つきやすい、脆弱な詩人であるという自己認識〈人形= 民喜〉が読み取れるのもそうだが、特に〈少女=貞恵〉 に出会えた喜びが『気絶人形』には溢れ出している。

○この『 気絶人形』と似た『屋根の上』という童話もある。語り手は〈 羽子〉で、この羽子は〈羽子板に描かれた少女〉 が好きだという設定で、印象的なのは「かちんと、 羽子板にはねられると、羽子は、うんと高く飛び上ってみました」 という一節だ。羽子は、羽子板が存在するからこそ価値がある。 それは逆も然りである。その喜び、 つがいであるという揺るがない喜びが彼を昂らせる。この作品も『 気絶人形』同様、民喜が貞恵と出会えたことを喜ぶ、 素直な心情が滲んでいるように感じられる。 ふたりの結婚生活を小海永二氏は次のように言い表している。

結婚してからの民喜は、妻の細やかな愛情の傍で、初めて" 彼を世間の荒波から守つてくれる、静かな港"を見出すのである。 妻は、 ほんの僅かの刺戟にも耐え難くなっていた民喜の微妙な気分の転換 をよく心得て、赤子の面倒をみるようにその世話を焼いた。" それで、彼は母親にあやされる、 あの子供の気持になつてゐることがよくあ"った。(「 苦しく美しき夏」)」。小説「遥かな旅」に、" すぐ近くにある町医に診察してもらふのに、 わざわざ妻に附添つて行つてもらつた。「赤ん坊のやうな人」 と妻はおもしろげに笑つた。"とある一節も、 事実あった話であろう。 (※註6)

○貞恵は、民喜が生きる上で必要不可欠な存在となった。 それは創作の面に於いても同じである。作品の構想を聞き、「 お書きなさい、それはそれはきつといいものが書けます」 と言ってくれる妻(『苦しく美しき夏』)。貞恵は、 作家と言うよりは文学を志す青年であった民喜を献身的に支え、 また、ある場面では、彼の代弁者として常にそばにいた。 たとえば、文学の先輩の家を訪ねる時がそうであった。

昭和十年頃、原君が初めて私の所を訪ねて来た。(中略) 玄関で室内を乞ふ時も、 室に入つて自己紹介する時も夫人の言葉にうなづくだけで、 自分からは何も言はなかつた。夫人が原君のことを皆言つた。 原稿を書くことの遅さとか、苦労をする様子とか、 夫人が静かに話す。原君はだまつてそばに坐つてゐる。」( 伊藤整原民喜の思ひ出』)

○自分のことを他人が語るとき、少しの間違いは生じるもので、 横にいれば訂正したくなるはずである。しかし民喜は、 黙って座っている。それほどの信頼関係でふたりは結ばれていた  。藤井淑禎氏の次の文章も、 民喜と貞恵の深い繋がりを物語っている。

貞恵さんの実弟にあたる佐々木基一氏も、 原民喜を外界の荒波から守ってくれる防波堤のような役目を果たし ていたのが貞恵さんであるとの意見に与し(中略) 原民喜にとって妻を失うということは、 防波堤を破壊されるということであり、 一種の延命措置をはずされるということにほかならなかった。 (※註10)

○そんな貞恵は、昭和十四年九月に結核を患う。 入退院を繰り返したこの闘病期間中、 明らかに民喜の執筆量は減った。 五年後の九月二十八日に貞恵が亡くなるまで、民喜は、 なるべくそばにいようと努めていた。民喜にとって〈通訳〉 であり、〈防波堤〉であり、出会いそのものが〈延命措置だった貞恵を失うことは、大事件であった。

「原は一日おきに病院通いをしていた。 雨が降ろうとどうしようと、 隔日の病院通いを決して欠かさなかった。(中略) 一日家に居ると、 翌日はまるで千秋の思いでその日が来るのを待つていたみたいに、 いそいそとして出かけて行くのだつた。その姿は見ていて、 いじらしいほどだつた。(中略) 厚いコンクリートの壁と硝子戸でしきられたその小さな部屋は、 彼にとつては荒い世間から隔絶された牧歌的な空間だつたに違いな い。」(佐々木基一『死と夢』)

○この頃、民喜は講師としての職も得ていたが、 彼にとって騒がしい中学校で教鞭をとることは、 なかなかの負荷であった。その疲労を癒しにでも来るかのように、 貞恵の静かな病室へ赴いた。 見舞い客と病人という構図になっても、 やはり民喜を支えていたのは貞恵の方だった。 ぽつぽつと語りかける民喜に、貞恵がやさしく頷く。〈貞恵との対話〉はそれで十分だった。彼女のおかげで、民喜は〈 自己との対話〉の底なし沼から少しの間、抜け出すことが出来た。 外界とのつながりを持てた。 貞恵は民喜のありのままを受け入れてくれる、 母親のような存在だった。民喜は、貞恵の最期まで、 静かに傍に寄り添った。

 Ⅲ 死 ―死者への親しみ―   

○Ⅰ章でも記したように民喜は、まず父の死、 次に姉の死を経験した(ちなみに民喜は五男だが、 原家では長男と次男、そして六男が幼死している)。そしてⅡ章で、妻・貞恵も、結核で亡くした。 渡辺ふさ枝氏に言わせれば〈拡張された自己〉であった(※註9) 貞恵を失い、民喜は遂に、精神的に、死と紙一重の場所に佇み、 ただその向こう岸を見つめて過ごした。親や兄弟姉妹、 そして貞恵を想えば想うほど、大切な人が逝ってしまうたびに、【あの世】に対する憧憬が湧いてきた。あの世の方が、 自分は穏やかに過ごせるのではないか……。

○そんな民喜は一九四五年八月六日に、広島の実家で被爆したが、 生き延びた。その体験を作品に書きのこして、 六年後の一九五一年に鉄道自殺に及んだ。 電車が通る線路に身を横たえたのである。

○その轢死という死に方は、 生前の民喜が最も恐れていた死に方だった。 友人にも轢死の幻想をたまに見ることを話していたし、 遠藤周作には、電車が通って線路に火花が散ったとき、「 ぼくはね、あの火花をみた時ね・・・・・・ 原子爆弾の落ちた瞬間を聯想してね」と言ったそうだ。

○天変地異の予感に怯えて自身の俳号も「杞憂」 としていた民喜の頭上で、おそろしい兵器が炸裂した。 しかし彼は一命を取り留めた。【あの世】に行けなかった。 その意味を彼は「天ノ命」だと受け取ったのだ。 そしてその勢いで被爆体験を赤裸々に書いたあと、 自らが最も恐怖していた死に方で死ぬ。それが民喜なりの、 被爆によって死んだ者たちの仲間に入れてもらうためにできる、 精一杯の行動だったのかもしれない。(ちなみに民喜は『溺没』 という短編小説の中で、酒を飲み踏切へと近づく男を描いた。 自殺当日の彼もまた飲酒をしていた。)
 ○彼は遺書を十七通も遺した。そこには遺稿の所在や、 持ち物の譲り先、印税の相続先などが明記してあった。 自らのことは自らきちんと始末を付けたい、 そんな民喜の意識が感じられる。遺すものへの、 強いこだわりと責任感。実に民喜らしい最期である。

○一度地獄をくぐり抜けた民喜が、自殺を選んだ最大の要因は、 また次の〈新たな地獄〉がやってくるという、予感に違いない。 家が猛火に包まれる空想が浮かんだりなど、 不気味な予感を常に抱いてきた民喜には、「 廃墟はまだ人の心の隅々にも日常生活のいたるところにも存在して ゐるはずだが、それがまだほとんど回復しないうちに、 すでに地上では次の荒廃が準備されてゐるのではないか。」(『 氷の花』)のような拭いきれない不安があった。それが、 朝鮮動乱という形で具現化され、彼の心を折ってしまった。 そしてついに、自ら命を絶つという選択をするのである。 清水節治氏は、民喜の死を、〈鎮魂歌の終わり〉と表現している。

恐怖と親愛、おびえとあこがれを抱きつづけた死者と死の世界、 その「あちら側」と「こちら側」への怪しい交流、 歌いつづける鎮魂の歌=作品、その歌の終りは、つまり彼が「 あちら側」にいく時なのであった。  (※註8)

○「あちら側」(あの世)と「こちら側」(現世)。 そこには境界があるのだが、 その境界のかぎりなく近いところに立っていた民喜。〈はじめに〉 に於いて、水木しげると関連付けて述べた通りである。 神秘世界の案内人(姉や女中)に招かれ、 異界や死の世界に親しみを持っていた民喜は、 脆弱な精神を守るため、創作に於いて現実から逃避し続ける。 家族と別れ、最愛の妻さえ死によって失う。彼の対話の相手のほとんどが、ことごとくあの世に逝ってしまったのである。

○ただし貞恵は、民喜に生前に「わたしが、 さきにあの世に行ったら、あなたも救ってあげる」(『 死の中の風景』)と言いのこしていた。それを信じた民喜は、〈死者との対話〉(コミュニケーション)を試みるのである。

Ⅳ 追憶 ―記憶の中で生きる―

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(画像参照元原民喜童話集|イニュブック|株式会社イニュニック

 ○民喜に関するテキストで、最も〈追憶〉の意識を感じられるのは、 『遥かな旅』における「もし妻と死別れたら、 一年だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・ ・・・・・」という一節である。実際に、 貞恵を結核で亡くしてから、 民喜は貞恵に宛てた手記をノートに書き続けた。これは妻である〈 貞恵との対話〉を試みようとする姿勢であり、同時に〈 死者との対話〉への挑戦でもある。喪失感に苛まれ、 再び内面でひたすら自己との対話を続けていた民喜の精神で始まっ た、新たな活動であった。手記以外にも、たとえば『 美しき死の岸に』の作品中で、民喜は貞恵とのやりとりを、〈 妄想〉している。

坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見てゐた。 こんな面白い雲があるのかと、 はじめて見る奇怪な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで ・・・・・・しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。( 中略)翌日、新聞に飛行機雲の写真が出てゐた。 さては昨日見た雲は飛行機雲といふものなのかなとひとり頷いたが 、仮りにこれをたまに語るならば「 漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、 病床にゐても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑った かもしれないのだ。(『飛行機雲』)

○民喜は、全面的に優しい貞恵のことも好きだったが、 それと同じくらい、貞恵の率直な物言いも好きだった。「 病床にゐても新知識の獲得の速い」という箇所に、 貞恵へのリスペクトを感じる。結婚初夜に「おたんちん!」 と怒鳴り返されたあの日から、民喜は貞恵の虜だった。 このような、 貞恵に翻弄されるようなやりとりを妄想するあたりに、 彼女亡き後も、 再婚の勧めを頑なに断り続けた民喜の心境が察せられる。 手記について話を戻すが、遡ると、 民喜は小学生の時点で日記をつける習慣を持っていた。また、 家庭内で兄に引っ張られながら同人誌を発行し、 詩を寄稿するなどしていた。記録する習慣と、 創作する習慣が早い段階で身についていたのである。 この積み重ねも、妻を失ったり、被爆した民喜に、 その体験を書き遺そうとさせたひとつの要因であろう。
○民喜の作品は、ほとんどが実体験に基づいている。 それを踏まえて、たとえば原爆以後の作品『氷花』 を読んでみよう。「出勤が始った。大森から田町まで、 夕方の物凄い電車が彼をもみくちゃにするのだった。彼は「 交通地獄に関するノート」を書き出した。(中略)彼は「 飢ゑに関するノート」もとっておかうと思った。」とある。 これはもはやギャグの領域で、ノートを作らなければ、 とにかく思ったこと・見たことを記さなければ、 気が済まないというような強迫を感じる。そして、 そうした執筆の最中も、民喜は貞恵を追憶する。『けはい』 という小文に、「自分の使ふペンの音とか、 紙をめくる音のなかに、いつのまにやら、 ふと若い日の妻の動作の片割れが潜んでゐる。」と綴っている。
○ちなみに『氷花』は、広島と東京を行き来した男の話であるが、 小海永二氏が取り上げている、 東京での民喜の様子に印象的なものがある。

とりわけ川の風景は彼の心に強い投影を与えていた。 広島は川の都と云ってもよく、 七つの流れが街を貫いて流れているが、 若い民喜はしばしば大田川の岸辺を歩きながら詩作に耽る。 東京で下宿している時は、よく故郷の川を想った。 (※註6)

 ○追憶の対象は人ばかりでなく、たとえば〈川〉 もその対象であったと考えられる。広島に原爆が落とされたとき、 その故郷の川には多くの死体が浮かぶことになった。 民喜はエッセイの中で、 八月六日の川での様子を次のように記した。

向岸はさかんに燃え続けてゐた。(中略) 上流から玉葱の函が流れて来た。 鉄橋の上で転覆した貨車から放り出されたものである。 私は水際へおりて行って、函を引よせては、 中の玉葱を岸の上の人に手渡した。(中略)私の拾った玉葱も、 瓦の上で焼いて食べられた。(『原爆回想』)

○次章で詳しく記すが、民喜は使命感に駆られ(自分ではそれを「 天ノ命」とした)、地獄の風景を現場で、 カタカナで手帖に書きつけた。それを整理し、作品にまとめた。 だからこそ、創作ではない、記録としての性格が、『夏の花』 には強く表れているのだ。作家としてのエゴを捨てた、 使命に駆られて書かれた文章。だからこそ、 読者の胸にすっと迫るのである。被爆体験を描いたのは『夏の花』 だけではない。それ以外にも小説やエッセイなど、 様々な形を取って八月六日を回想した。『原爆回想』 もそのうちの一篇だが、 特に玉葱を瓦の上で焼いたというエピソードは、 後追いの我々には想像し得ない場面だ。 あの日あの場所にいなければ見ることのない瞬間。 そこをしっかり見つめ、民喜は作品の一部に盛り込んでいる。 自分の殻にこもり、外界を恐れていたはずの民喜は、 ここにきてしっかりと、作家の眼を見開き、 現実を直視したのである。 

Ⅴ 使命 ―予感が現実に―

○民喜が生涯を通じて憧憬を持って眺めたのは、 愛しい人たちが逝ってしまった美しい死の岸辺、つまり【あの世】 であった。そんな彼が人生の晩年に悟った〈使命・天命〉とは、 死んでいった民の悲痛な声を背負って、ひたすら詩を、 小説を書くことだった。 これまでは親しかった数人を追憶すればよかった。しかし、 あの広島で、民喜は何千人もの死とすれ違った。大仕事になる、 民喜にはそんな予感があった。意気込みは凄まじく、『 死と愛と孤独』には「 この眼で視た生々しい光景こそは死んでも描きとめておきたかった 。」と綴っている。特に、民喜の代表作には、 その使命感と責任感が色濃く滲んでいる。

かねて、 二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、 ふと己が生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。(『 夏の花』)

○『夏の花』は、一九四六年の十二月半ばに、 民喜から佐々木基一へと託された。約一年ほどで、 民喜は自身の被爆体験を作品に昇華したのである。『夏の花』 で印象的なのは、被爆した人々の発する声である。

「あなたは無事でよかったですな」「家が焼ける」「水を下さい」 「白いものを着たものは木陰へ隠れよ」「助けてえ」「 死んだほうがましさ」

○また、作品冒頭の墓参り(八月四日)の場面で〈私〉は「 八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、 それまでふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった」と不気味な 予感を吐露する。また八月六日の朝、 倒壊を免れた実家の縁側から、 外の破壊された家屋を眺める場面で「 それはひどく厭な夢のなかの出来事に似ていた」と綴っている。

○民喜は幼い頃から敏感な感覚を持ち、死と幻想に囚われ、 世界の終わりを幻視していたが、その予感は、 大人になってからも彼を襲った。『死と愛と孤独』には「 私にとって、この地上で生きてゆくことは、 各瞬間が底知れぬ戦慄に満ち満ちてゐるやうだ。」と綴っている。 この幼い頃から苛まれた恐ろしい予感は、 なんと現実のものとなって民喜の頭上へと降りかかったのである。 小海永ニ氏は「戦後の日常の中で、 この詩人をさいなみ続けた天地崩壊の幻覚は、 人智の悪しき発達の極限に発明された原子爆弾の投下という、 極めて現実的な事件に由来するものであった」 (※註7)と表現している。 自らのイメージが、形を持って眼前に具現化される。 これを清水節治氏は「一種の精神的解放」(※註8)と形容した。 民喜はそうした現実を、詩人・作家としての責任感、 または記録しようとする習性によって、ノートに書き留めた。

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(画像参照元https://x.com/monga_book/status/1238371484466163713?s=20

○ところで、被爆したことが、 民喜の人生においてどれほど意味のある出来事だったのか、 清水節治氏は以下のように指摘している。

暗い川水の中を奇怪な顔や生首が流れていく幻覚(「小地獄」)、 地球滅亡の日の幻想(「廣野」)などを描いたのであったが、 それらのイメージが」 あの八月六日現実のものとして出現したのである。すでに彼は、 架空の世界に「地獄」をイメージする必要はなかった。 あらゆる想像を超えた地獄はそこにあったのであり、 彼はただ記録すればよかったのである。こうして「夏の花」 は生まれたのだが彼の心を領し続けた小さく閉ざされた被害感は、 群衆の、民族の被害の意識となって広さと大きさを持った。 (※註8)

○もとより、『廃墟から』の中で「 何か書いて力一杯ぶつかってみたかった」と述べていた民喜。 人生の最晩年になっていよいよ敵と出会う展開は、 まるでヘミングウェイの『老人と海』のようである。 さらに興味深いのは、ここにきて、常に〈マイノリティ=少数派〉 として、 端の方で何かの影に隠れて生きてきたような民喜の心境が、〈 マジョリティ=大衆〉の意識とリンクすることである。 幼少期から寡黙で、受け身で、 被害妄想的な性質を持っていた民喜が、 遂に人類史上最悪の事件の被害者として先頭に立ち、証言を代表するときがきたのである。

あの原子爆弾で受けた感動は、 人間に対する新しい憐憫と興味といっていい位だった。 急に貧婪の眼が開かれ、彼は廃墟のなかを歩く人間をよく見詰めた (『氷花』)

○妻が亡くなり、 妻のための詩集を書きのこす一年間だけを生きようとした民喜。 その民喜が被爆したことは、皮肉にも彼に対する延命措置〉 となった。被爆を書くために、 またしばらく生きていなければならなかった。ただ、 鉄道自殺するまでの期間、執筆以外の時間を、 惰性で生きていたのではない。民喜は、原爆が落とされ、 降伏した戦後の日本で〈新しい人間〉(『死と愛と孤独』) が見られることを期待した。そして、妻の死以来、 久々に関東の地へ居を移した。ただ、そこには殺伐とした、 民喜にとっては冷たい人間模様が繰り広げられているだけだった。 〈新しい人間〉への希望はすぐに途絶えた。

○しかし、 良い出会いもあった。遠藤周作と、祖田祐子との出会いだった。 海外で学ぼうとする文学青年・遠藤と、 天真爛漫で無邪気なタイピストの祐子。 晩年で最も親しかったこのふたりだけに、 民喜は希望を重ねていた。このふたりがいたからこそ、民喜は、 希望を少し信じることが出来た。そして、 次世代の平和も祈ることが出来た。ただその友情を持ってしても、 民喜の自殺は止められなかった。

  Ⅵ 鎮魂 ―鳴り止まぬ声―

 ○民喜の使命は、惨劇の記録だけではなかった。もうひとつ、 あの八月六日の死者たちの〈鎮魂〉があった。何があったか、 振り返ろうとするたびに、記憶の中の、死にゆく人々の叫びが、 民喜をつらぬいた。

一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。 僕はここにゐる。僕はこちら側にゐる。僕はここにゐない。 僕は向側にゐる。(中略)僕は堪へよ、 堪えてゆくことばかりに堪へよ。僕を引裂くすべてのものに、 身の毛のよ立つものに、死の叫びに堪えよ。(『鎮魂歌』)

○貞恵の死を悼む一年を送った民喜は、疎開先の広島で被爆した。 これまでも近しい人の死を間近に見ながら育った民喜だったが、 大殺戮の現場に居合わせたのは初めてだった。だが【あの世】 に親しみを持っていた民喜は、人一倍、いや何十倍も、 あの日に失われた魂を慮り、そればかりでなくいつまでも、 その魂に付きまとわれていた。〈はじめに〉で、 原民喜水木しげるの類似性を指摘しつつ、 その人となりを比較したが、〈魂〉に関する話では、水木の著作『 のんのんばあとオレ』(※註11)に次のようなエピソードがある 。

 (ナレーション)  夢から覚めた茂に、のんのんばあが、 千草さんが息を引き取ったことを告げます。「お嬢さんなあ 息をひきとりになったんだが・・・・・・」「 今朝の四時だったなあ・・・・・・」 「・・・・・・オレ・・・・・・」「わかっちょった」 そして、 数日たっても何もする気が起こらないと言う茂にのんのんばあが語 りかけるシーンは秀逸です。のんのんばあは、 優しくこう教えてくれました。 「千草さんの魂が しげーさんの心に 宿ったけん 心が重たくなっちょるだがね」「でも しばらくすると その重たさにも 慣れるけん」「心配はいらんよ」 のんのんばあは、ときには宿る魂が大きすぎることもあるし、 これから先はもっともっと重たい魂が宿ることもある。けれども、 成長するにつけて心もその重たさに耐えられるくらいに大きくなっ て、大人になっていくのだと茂に伝えるのです。 (※註3)

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○実際に従軍し、仲間の命や片腕を失った水木にも、 かなりの数の魂が宿っていたに違いない。しかし、 もとより虚弱な精神と肉体を持って、何とか生き延びていた民喜。 あの日、死ぬことが出来なかった民喜には、 多大な魂が重圧としてのしかかっていたはずである。 それでも彼が、 書きのこすために戦後をしぶとく生きていたことを思うと、 新たな戦争の予感に背中を押されたように自死してしまった、 彼の最期にも頷けてしまう。

自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。 僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。 僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。 お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕 が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支えた。 僕の眼の奥に涙が溜るとき、 僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。(『鎮魂歌』)

○「久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。」この部分に、 おそらく【あの世】への親しみが込められている。 幼少期から見続けた死、思い続けた彼岸。 鎮魂すべき魂の数は彼にとって膨大すぎたが、 民喜は彼らに取って代わって、ペンをとり、作品で証言した。 死者を思いながら、死者のために生きた。民喜は死者によって生かされた詩人だった。

【おわりに】

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香川県高松市・YOMSさんで購入した原民喜全集)

  1. ○詩人・長田弘氏は、芳賀書店発行の『普及版 原民喜全集』(※註11)第三巻の解説に於いて〈民喜の全作品〉 を、「初期の『死と夢』の時期における幻覚化された死から、 愛する妻の死へ、さらに「広島の惨劇」 の無数の死者たちの死へとしずめられてゆくその三楽章の進行」 と表現している。私もそのように、〈民喜の生涯〉 を三つに分けてみたい。
     
    一、内向的な自身との対話の時期
    ニ、最愛の人・貞恵との対話の時期
    三、死者との対話を試みる(呼応し合う)時期
     
    ○以上の三つである。しかし、この三つが複雑なのは、 次の時期へ移行するとき、必ずしも以前あった対話の形を失ったりはしないということだ。つまり、 だんだんと新しい対話の形を増やしていく流れなのだ。被爆後、 民喜は自問自答もする。 死者であり最愛の人である妻とも回想の中で対話する。 彼女宛の手記も書く。そして、広島の魂とも交流する民喜。 彼は多くを失いながら、 精神の世界において多くの扉を開いていたのである。 
    ○民喜が抱えた不気味な予感は、ことごとく的中している。 一九三七年七月に日中戦争が勃発したときも、『苦しく美しき夏』 に「あの常に脅かされてゐたものが遂にやつて来たのだ。(中略) 妖しげな天変地異の夢は何を意味し何の予感なのか、 彼にはぼんやり解るやうに思へた」と綴った。また『鎮魂歌』 に於いては、「久しい以前から、既に久しい以前から、 鎮魂歌を書かうと思つてゐるやうなのだ。」と振り返っている。 幼少期、兄の守夫氏らと原稿を綴じて作った同人誌に『霹靂』 と名をつけたのも民喜だった。

○ さらに『狼狽』には、ある日突然〈 霊感〉を得てしまう平凡な数学教師が登場する。その姿は、 まるで民喜自身の苦悩の具現化だ。小海永二氏の要約によれば、 おおむね以下のような内容である。

彼自身ではそんな大それた霊感など欲しくもないのに、 人々は遂に彼を神様 に仕立てて彼から助言を求める。 すると彼の予言は皆不思議に当るのだ。(中略) 彼はもうどこへも逃げ道のない自分を感じで自殺する。(中略) 予感の能力を持つ者の不幸とでも云ったものが、( それはいわば自らの予感に脅える民喜自身の不幸であった) イロニカルなユーモアとなって出ている。 (※註6)

 ○そして民喜は、貞恵の弟・佐々木基一に宛てた遺書の一部にも、 不気味な予知を記していた。

岸を離れて行く船の甲板から眺めると、 陸地は次第に点のやうになって行きます。僕の文学も、 僕の眼には点となり、やがて消えるでせう。 (※註12)

 ○民喜は妻の姿を作品に美しく書きのこした。そして、 幼年期の幻想的な風景も、文学作品に落とし込むことが出来た。 そして最期に、原爆の被害者としても出来ることはすべてやった。 そんな彼が、死によって、穏やかに彼自身の作品から解放されるこ とに、誰も文句は言わないだろう。

○ただ、私たち現代人、 そして次世代の読者の眼から、 民喜が死の際で書きのこした作品が、消えてしまうことは、 絶対に避けなければならない。

 

(註一覧)

註1…水木しげる『(娘に語る)お父さんの戦記』 河出書房新社 一九八二年八月四日発行

註2…水木しげる『私はゲゲゲ』 角川書店 二〇一〇年三月二五日発行

註3…釈撤宗、中条省平ヤマザキマリ佐野史郎『 別冊NHK100分de名著 「わが道」の達人 水木しげる』 NHK出版 二〇二三年一月三〇日発行

註4…『定本原民喜全集』 青土社 一九七九年三月一三日発行

註5…梯久美子原民喜 死と愛と孤独の肖像』 岩波書店 二〇一八年七月二〇日発行

註6…小海永二原民喜ー詩人の死』 国文社 一九八四年五月二五日発行

註7…川西政明『一つの運命。原民喜論』  講談社 一九七五年七月三〇日発行

註8…清水節治『ヒロシマ文学論ーノート・原民喜ー』 「近代文学研究」所収 一九六六年五月発表

註9…渡辺ふさ枝『透明への飛翔:原民喜論』 「日本文學誌要」所収 一九八三年一一月二五日発表

註10…原民喜『夏の花』より 集英社文庫 一九九三年五月二五日発行 藤井淑禎『解説―――小説化への過程』

註11…『水木しげる漫画大全集 093 のんのんばあとオレ』 講談社 二〇一五年一〇月二日発行

註12…『普及版 原民喜全集』 芳賀書店 一九六六年二月一五日発行